メジロマックイーン、淀を極めた芦毛と、孫たちへ渡した長い脚

毎年春、京都・淀の3200メートルに、同じ芦毛がいた。

1996年、引退後のメジロマックイーン
メジロマックイーン(1996年8月9日・引退後) / Hahifuheho / CC0 1.0 / Wikimedia Commons

天皇賞・春。ゴールまで一周半を超える長い道のりの、最後の坂の下。前が壁になりやすいこのコースで、メジロマックイーンはいつも脚をためて構えていた。4コーナーを回り、淀の長い直線へ。武豊がゴーサインを出すと、芦毛の大きな馬体が、坂を上りながらじわりと前へ出ていく。

派手な決め手ではない。速い脚を一瞬だけ使う馬ではなく、長い距離を、同じ大きさの脚で走り続けられる馬だった。だから最後の坂で消耗した相手が止まっても、マックイーンだけは同じリズムのまま前へ進む。淀の3200メートルは、そういう馬のための舞台であり、その舞台をいちばん似合いにしたのが、この芦毛だった。

21戦12勝
菊花賞(1990)
天皇賞・春 連覇(1991・1992)
宝塚記念(1993)

メジロマックイーンの記録

遅れてきたステイヤー

メジロマックイーンは、早くから騒がれた馬ではなかった。

距離が延びてこそ良さの出る、いわゆる晩成のステイヤーで、短い距離を鋭く差すタイプではない。素質を一気に見せつけるより、走るごとに体と競馬を覚えていく馬だった。

その良さがはっきり形になったのが、1990年の菊花賞である。京都の3000メートル、クラシック最後の一冠。手綱を取ったのは内田浩一だった。長い距離になるほど地力の差が出るこの舞台で、マックイーンは最後まで脚を残して押し切り、GIタイトルを手にした。世代の頂点に、長距離で届いた一勝。ここから、淀を舞台にした長い物語が始まる。

淀がいちばん似合った馬

明けて1991年、メジロマックイーンは古馬の長距離路線へ進む。そして、この年から手綱はほぼ武豊に託されるようになった。

春、京都の天皇賞・春。3200メートルの舞台で、マックイーンは自分の型どおりに走った。長い直線でじわじわと前をとらえ、最後の坂を上りきって先頭でゴールする。天皇賞・春・優勝。晩成のステイヤーが、古馬の頂点のひとつに立った瞬間だった。

この年はほかにも、阪神大賞典、京都大賞典と、距離のある重賞を続けて勝っている。短距離で切れ味を競うのではなく、長い距離を淡々と、しかし誰よりも力強く走る。淀の3200メートルは、そんなマックイーンの持ち味がそのまま結果になる場所だった。武豊とのコンビも、この長距離の舞台で完成していった。

六馬身の一着、そして最下位

その1991年の秋に、忘れられない一戦がある。天皇賞・秋だ。

レースそのものは、マックイーンの強さがよく出ていた。2着に6馬身の差をつけて、先頭で入線したのである。ところが、序盤の2コーナーで内側に斜行し、他馬の進路を妨げたと判断された。規定により、1位入線のマックイーンは最下位の18着に降着。武豊にも騎乗停止の裁定が下った。JRAのGIで、1位で入線した馬が降着になった、初めての例だった。

六馬身ちぎって勝ったのに、記録上は最下位。強さと裁定が、これほど大きく食い違った一日はそうない。ただ、この降着は「弱かったから負けた」のではない。むしろ、抜けた地力を持つ馬だからこそ起きた、後味の複雑な一戦として語り継がれている。マックイーンは、この痛い一件を引きずらなかった。

世紀の対決

1992年の春、淀にもう一つの物語が重なる。天皇賞・春で、無敗の二冠馬トウカイテイオーとぶつかったのだ。

世代の旗手テイオーと、長距離の王者マックイーン。ファン投票でも人気を分け合う二頭の初対決は、「世紀の対決」と呼ばれて注目を集めた。結果は、マックイーンの完勝だった。淀の3200メートルを自分のペースで運び、そのまま押し切って天皇賞・春を連覇。テイオーは5着に敗れ、大きく離された。

もっとも、この一戦はテイオー側にも事情があった。レース後、テイオーはまた骨折していたことが分かる。強い相手に力負けしたというより、体が悲鳴を上げながら走っていた。二頭が万全でぶつかる場面は、けっきょく多くはなかった。だからこそ、この1992年の淀が、二頭の対決の記憶として長く残っている。テイオー側から見たこの日の物語は、名馬物語「トウカイテイオー」でも読める。

三連覇の前に立った影

天皇賞・春を二年続けて勝ったマックイーンには、次の大きな目標があった。1993年、前人未到の三連覇である。

同じ淀の3200メートル。マックイーンはこの年も当然のように主役だった。しかし、その前に一頭の馬が立ちはだかる。ライスシャワーだ。淀の長距離をレコードで駆け抜けたその馬に、マックイーンは2馬身半差の2着に敗れた。三連覇の夢は、あと一歩のところで止まった。

負けはしたが、内容が落ちたわけではない。相手が、淀に記録を刻むほどの走りをした。強い馬が、さらに強い一日の走りに屈する。長距離の頂点で二年君臨した馬が、三年目に若い刺客へ譲る——競馬の世代交代が、いちばん濃い形で現れた一戦だった。

淀で終えた現役

三連覇こそならなかったが、1993年のマックイーンはまだ走り続けた。

春には産経大阪杯を勝ち、初夏の宝塚記念を制する。ファン投票で選ばれるグランプリを、堂々の走りで勝ち切った。秋には京都大賞典も勝ち、淀での強さを最後まで示した。しかし、脚部への不安が重なり、この年をもって現役を退くことになる。

21戦12勝。長距離のGIを舞台に、勝つべきところで勝ち、負けても崩れなかった。派手な逃げや鮮やかな追い込みで沸かせる馬ではない。それでも、淀の坂をいちばん力強く上れる馬として、多くのファンの記憶に「長距離の王者」として刻まれた。

メジロ、三代の天皇賞

メジロマックイーンを語るとき、忘れてはならないのが血の物語だ。

祖父はメジロアサマ。1970年の天皇賞・秋を勝った。父はメジロティターン。1982年の天皇賞・秋を勝った。そしてマックイーンが、1991年と1992年の天皇賞・春を勝つ。祖父・父・仔と、父系の三代が続けて天皇賞を制した。同じ一族が、世代をまたいで同じ大レースを勝ち継ぐ。競馬の歴史の中でも、そう何度も起きることではない。

「メジロ」の名を背負い、長距離に強い血を継いで走る。マックイーンの走りは、一頭の記録であると同時に、メジロという生産者が積み重ねてきた時間の到達点でもあった。芦毛の馬体は、その血の長い流れを目に見える形にしていた。

母の父として

引退後、メジロマックイーンは種牡馬になった。直仔からもヤマニンメルベイユやディアジーナといった重賞勝ち馬が出たが、この馬の血がもっとも大きく花開いたのは、母の父としてだった。

娘たちが産んだ仔に、マックイーンの長距離の血が流れ込む。ドリームジャーニーが宝塚記念と有馬記念を勝ち、その全弟オルフェーヴルがクラシック三冠を制した。さらにゴールドシップが二冠を獲り、宝塚記念を二度、天皇賞・春を勝つ。いずれも父はステイゴールド、母の父はメジロマックイーン。「父ステイゴールド×母父メジロマックイーン」というこの組み合わせは、のちに黄金配合と呼ばれるようになった。

淀を極めた芦毛の長距離の血は、こうして次の時代の主役たちへ渡っていった。オルフェーヴルとゴールドシップ、二頭の現役時代は、それぞれ名馬物語で読める。マックイーンの走りを知ってから二頭を読むと、あの長い脚がどこから来たのかが、少し違って見えてくる。

受け継がれたもの

メジロマックイーンは、淀の3200メートルという一つの舞台を、誰よりも自分のものにした馬だった。

天皇賞・春を連覇し、三連覇にはあと一歩届かず、宝塚記念で有終を飾った。六馬身の一着が最下位になった秋もあれば、若い刺客に頂点を譲った春もある。派手さより、長い距離を同じ脚で走り続ける強さ。その芦毛の走りは、祖父から父へ、父から仔へと継がれた天皇賞の記憶の先にあり、さらに母の父として、オルフェーヴルとゴールドシップという次代のスターへ流れていった。

一頭で完結する強さではなく、前後の世代とつながって記憶される馬。淀を上りきったあの長い脚は、いまも血統表の中で走り続けている。

2006年4月3日、メジロマックイーンは19歳で世を去った。奇しくも、生まれた日と同じ日付だった。

参考資料・画像クレジット

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