ディープインパクト、置いていかれてから始まる馬

出遅れて、大外を回って、5馬身。数字だけ並べると、話が合わない。この馬の14戦は、いつも置いていかれるところから始まった。

2005年東京優駿のディープインパクト
2005年5月29日・東京競馬場(第72回東京優駿) / Goki / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
種牡馬物語 この馬の種牡馬としての歩み・コントレイルら産駒データはこちら ディープインパクトの父としての歩みを読む

2005年5月29日、東京競馬場。東京優駿、芝2400メートル、18頭立て。単勝1.1倍の1番人気がゲートを出た瞬間、スタンドの空気がわずかに動いた。

出遅れである。

道中、その馬は後方にいた。無敗で皐月賞を勝ったばかりの馬が、他の馬の背中を見る位置にいる。4コーナーで外へ持ち出された。大外を回るということは、内を通る馬より長い距離を走るということだ。ふつうは不利という。

残り200メートルで先頭に並んだ。並んだ、と思った次には離している。ゴールしたとき、2着インティライミとの差は5馬身あった。時計は2分23秒3。当時のレースレコードである。

出遅れて、大外を回って、5馬身。数字だけ並べると、話が合わない。

この馬の14戦は、いつもここから始まる。置いていかれるところから。

14戦12勝
無敗の三冠(2005)
国内唯一の敗戦・2005年有馬記念
菊花賞 単勝支持率79.03%

ディープインパクトの記録

あまり派手に勝たせないでくれ

2004年12月19日、阪神競馬場の新馬戦。芝2000メートル。

レース前、陣営は鞍上の武豊に妙な頼み方をしている。あまり派手に勝たせないでくれ、と。2歳の暮れである。この先にクラシックがある。今ここで力を使い切らせたくない、という理屈は分かる。

結果は4馬身差だった。上がり3ハロンは33秒1。2着に負かしたコンゴウリキシオーは、のちに重賞を4つ勝つ馬になる。

厩務員の市川は、派手にやってしまった、と思ったという。あれだけの脚を使えば消耗する。心配して見に行くと、レース直後だというのに、もう息が戻っていた。そのとき彼は、クラシックでも戦える、と思ったそうだ。

抑えてくれと頼んで、4馬身。この馬の話は、最初から人の計算の外にあった。

躓いて、最後方から

2005年4月17日、中山。皐月賞。18頭立て。

ゲートが開いた直後、ディープインパクトは躓いた。落馬してもおかしくない躓き方だった。武豊が体勢を立て直したときには、もう最後方にいる。

向こう正面ではローゼンクロイツと接触した。4コーナーでは、あろうことか気を抜いた。クラシックの1冠目、中山の直線を前にして、馬のほうが集中を切らしている。

武がこの馬に初めて鞭を入れたのは、そこだった。1発である。すると直線で抜け出し、2着シックスセンスに2馬身半差をつけてゴールした。

レースのあと、武豊はこの馬の走りをこう表現している。

「走っていると言うより飛んでいる感じ」

飛ぶ、という言葉がこの馬について回るようになったのは、ここからだ。ただ、その言葉が生まれた日、馬は最後方からのスタートを強いられていた。その言葉が強く残ったのは、いつも後ろから前へ出たからでもある。

出遅れた1番人気

そして冒頭の、5月29日である。

単勝1.1倍。無敗の皐月賞馬が負けるところを、うまく想像できない、という空気があった。

その馬が、出遅れた。

道中は後方。4コーナーで大外へ。距離のロスを承知のうえで、外から一気に押し上げる。残り200メートル地点で先頭に並び、そこから突き放して5馬身。2分23秒3は、当時のレースレコードだった。

レースのあと、武豊はこう言っている。

「この馬の走りに感動しました」

騎手が、自分の乗った馬に感動する。奇妙な言い方である。ふつう騎手は、自分が乗って勝たせる側だ。この日は、乗っている人間まで観客になっていた。

79.03%

2005年10月23日、京都。菊花賞。芝3000メートル。

この日の単勝は、100円元返しだった。100円買って、100円返ってくる。オッズがつかないという意味である。単勝支持率は79.03パーセント。菊花賞では、1963年メイズイの83.2パーセントに次ぐ史上2位の数字だった。

10人のうち8人が、同じ馬の単勝を買っている。

レースは2馬身差だった。2着はアドマイヤジャパン。勝ちタイムは3分04秒6。

これで牡馬クラシック三冠は史上6頭目になる。セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンに続く6頭目。そして、一度も負けずに三冠を獲ったのは、1984年のシンボリルドルフ以来、21年ぶり2度目だった。

21年である。無敗の三冠は、そのくらいの間隔でしか起こらない。

2005年菊花賞当日のディープインパクト
2005年10月23日・京都競馬場(第66回菊花賞当日) / Goki / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

届かなかった半馬身

2005年12月25日、中山。有馬記念。

ファン投票では160,297票を集めていた。2位に35,000票あまりの差をつけての1位である。単勝1.3倍。ここまで7戦7勝。

ハーツクライには、クリストフ・ルメールが乗っていた。この日の乗り方は積極的だった。3番手につけ、早めに動き、残り150メートル付近で抜け出している。

ディープインパクトは、いつもどおり後方にいた。10番手あたりから追い上げる。届かない距離ではない。この馬なら届く、と多くの人が思っただろう。

半馬身、届かなかった。

8戦目にして初めての黒星である。そして結果的に、この馬が国内で喫した唯一の敗戦になった。

負け方に、この馬の輪郭が出ている。後ろから行って、届く。それがこの馬の型だった。届かなかった日が一度だけあって、それがこの日だった。

なお、この日ディープインパクトに土をつけたハーツクライが、そのあとどんな種牡馬になったかは、種牡馬物語「ハーツクライ」に書いてある。

自分から動く馬になった

2006年、4歳。

3月の阪神大賞典は、不安材料が並んでいた。3か月の休み明け。初めての58キロ。馬場は稍重で、向かい風も吹いていた。9頭立て、芝3000メートル。

2周目の向正面で折り合いがついた。2周目の3コーナーから、武は手綱を持ったまま加速させている。追わずに、である。2着トウカイトリックに3馬身半差。

「この馬の強さを改めて感じましたね」と武は言った。

4月30日、京都、天皇賞春。芝3200メートル、17頭立て。

またしても出遅れた。最後方から2番手で折り合う。長距離戦で最後方というのは、本来なら詰み筋である。

ところがこの馬は、3コーナー手前、残り1000メートル地点から動き出した。ロングスパートである。4コーナーではもう先頭にいた。直線は流して、2着リンカーンに3馬身半差。上がり3ハロン33秒5は、メンバー中最速だった。

3200メートルを走ってきた馬の上がりではない。

6月25日の宝塚記念は、京都で行われている。阪神競馬場が改修中だったからだ。雨で稍重。道中は後方2番手。残り700メートルから進出し、直線は馬場の外めを伸びて、2着ナリタセンチュリーに4馬身差。

3戦とも、後ろにいて、自分から早めに動いて、離して勝った。3歳の頃は「置いていかれてから届く」だった。4歳のこの馬は、置いていかれた場所から、自分の意思で動き出すようになっていた。

ロンシャンの3位入線

2006年10月1日、フランス、ロンシャン競馬場。第85回凱旋門賞。

ディープインパクトは3位で入線した。勝ったのはレイルリンク。鞍上はステファン・パスキエ、管理するのはアンドレ・ファーブルで、前年に続く連覇、調教師として最多となる7勝目だった。

日本にとっては、まだ勝てていない競走である。3着なら健闘といえた。

10月19日、フランスギャロが発表を出す。レース後の検査で、ディープインパクトの体内から禁止薬物のイプラトロピウムが検出された、と。

11月16日、着順は3着から失格に変更された。

イプラトロピウムは気管支の治療に使われる薬で、薬そのものはフランスでも日本でも使用が認められている。違っていたのは制度のほうだった。フランスは、体内に自然には存在し得ない物質をすべて禁止とする。日本は競馬法の上で、禁止薬物を一つずつ指定していく仕組みだった。

同じ薬が、国境をまたぐと別の意味になる。

記録の上では、この馬の凱旋門賞は、着順のない一行になった。

最後の1戦

11月26日、東京、ジャパンカップ。勝った。

12月24日、中山、有馬記念。引退レースである。単勝1.2倍。

道中、ディープインパクトは11番手あたりにいた。1年前、この同じ中山で、10番手から追い上げて半馬身届かなかった。

今度は早かった。3コーナーの入り口、残り800メートルのハロン棒を通過したあたりで、もう仕掛けている。

直線、武豊が鞭を入れたのは1発だけだった。あとは手綱だけで追っている。先行していた馬たちを、まとめて捕らえていく。2着ポップロックとの差は3/4馬身。3着はダイワメジャー。勝ちタイムは2分31秒9。

最後の一戦で、この馬は後方11番手から届いた。

全レースが終わったあと、中山競馬場で引退式が行われた。ナイター照明がついていた。武豊を背にして入場し、ファンから寄せられたメッセージが読まれ、特別に作られた馬服が贈られた。

14戦。12勝。すべて武豊が乗った。

2006年有馬記念のディープインパクト
2006年12月24日・中山競馬場(第51回有馬記念) / Ub-K0G76A / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

飛ぶ、と言われた時代

2005年と2006年、ディープインパクトは2年続けてJRA賞年度代表馬に選ばれている。2005年の最優秀3歳牡馬は満票だった。291票、すべてがこの馬の名前である。2008年にはJRA顕彰馬に選ばれた。

この2年間、競馬は競馬場の外まで届いていた。毎週の競馬を見ていない人が、この馬の名前だけは知っていた。強い馬というより、ひとつの時代の顔だった。

無敗の三冠という記録は、ディープインパクトの前ではシンボリルドルフのものだった。1984年である。あの馬は、負けないことを設計として積み上げていくような勝ち方をした。21年後のディープインパクトは、毎回置いていかれて、毎回間に合った。同じ「無敗の三冠」でも、見え方はずいぶん違う。

そしてこの馬には、届かなかった場所が2つある。2005年の有馬記念と、2006年の凱旋門賞。完璧ではなかった。その欠けたところがあるから、この馬の話には、いまも続きがある。

サンデーサイレンスと、ウインドインハーヘア

父はサンデーサイレンス。日本の芝を作り替えた馬である。母はウインドインハーヘア、母父はAlzao。欧州の深い牝系だった。

軽さと、奥行き。その組み合わせから、小柄な鹿毛の馬が出た。

この血統がのちにどれだけ大きなものになったかは、産駒の話になる。ここでは書かない。

そして、父へ

2007年、ディープインパクトは北海道の社台スタリオンステーションで種牡馬になった。初年度の種付料1200万円は、当時、日本で繋養される種牡馬としては最高額だった。

2019年7月30日、17歳でその生涯を終えた。

種牡馬としての歩みと、産駒の詳しい話は、別の一篇にゆずりたい。ここで書いておきたいのは、後ろから行って前に出るというこの馬の型が、産駒にどう出たのか——それは、この馬自身が走らなくなってから始まる話だ、ということだけである。

(→ 種牡馬としての歩み・コントレイルら産駒データは「種牡馬物語 ディープインパクト」へ)

受け継がれたもの

ディープインパクトの14戦を並べると、妙なことに気づく。

新馬戦では抑えてくれと頼まれて4馬身離した。皐月賞では躓いて最後方から2馬身半。ダービーでは出遅れて大外から5馬身。天皇賞春でも出遅れ、最後方から2番手で、3馬身半。

いつも、置いていかれている。そして、いつも前にいる。

走っているというより飛んでいる感じだった、と武豊は語った。その言葉が残ったのは、この馬が速かったからだけではない。後ろから来た馬が前に出る、その瞬間を、人はいちばんよく覚えている。ディープインパクトは、その瞬間を14回のうち12回つくった。

一度だけ、届かなかった。2005年の有馬記念、半馬身。

そして最後のレースで、後方11番手から、鞭1発で取り返して帰ってきた。

置いていかれるところから始めて、間に合わせる。それだけを、2年間くり返した馬だった。

参考資料・画像クレジット

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